1848年イランにおけるタバコ運動:近代化と西洋文化の衝突、そして宗教的権威の揺らぎ
19世紀のイランは、近代化と伝統との間の激しい葛藤に直面していました。西欧列強の進出は、イラン社会のあり方に大きな影響を与え、その中でタバコが意外な舞台となる政治的・社会的な運動の引き金となりました。1848年に勃発した「タバコ運動」は、単なる嗜好品をめぐる論争ではなく、近代化への抵抗と宗教的権威の維持をかけた闘いでした。
この運動の背景には、イランの経済状況が悪化したこと、そして外圧による改革が急速に進められていたことが挙げられます。当時、イランの財政は深刻な危機に瀕しており、政府は新たな収入源を求めていました。そこで目をつけたのがタバコの専売制度でした。
イギリスの東インド会社は、イラン政府と契約を結び、タバコの生産・販売独占権を得ました。この契約により、イラン政府は莫大な税収を得ることができると期待されました。しかし、この専売制度はイラン社会に大きな混乱をもたらしました。
まず、タバコは当時、イラン社会で広く楽しまれていました。その価格が高騰することで、多くの人々が経済的な負担を強いられました。特にイスラム教の戒律に基づいてタバコを禁じている人々にとっては、専売制度は宗教的自由を侵害するものとして受け止められました。
さらに、専売制度は外国企業にイラン市場を支配されることを意味しました。イラン国民は、自国の経済が外資に握られることに強い反発心を抱きました。こうした不満が、タバコ運動の火種となりました。
運動の発端となったのは、1848年10月、タブリーズの宗教指導者であるモハンマド・シャー・アッバースが率いるイスラム聖職者が、タバコの使用と専売制度を批判する演説を行いました。彼らはタバコを「不道徳な嗜好品」であり、「西洋文化の侵略」として非難しました。
この演説はたちまちイラン中に広まり、多くの民衆が運動に参加するようになりました。タバコを拒否し、専売制度の廃止を求めるデモやストライキが各地で起こりました。
イラン政府は当初、運動を軽視していました。しかし、運動の規模が拡大し、社会不安が高まるにつれて、対応に苦慮しました。政府は宗教指導者たちと交渉を試みましたが、妥協点は見出せませんでした。最終的に、政府は軍隊を派遣してデモを鎮圧しようとしましたが、民衆の抵抗は激しく、事態はさらに深刻化していきました。
タバコ運動は、1849年にイランのモハンマド・シャー国王が専売制度を廃止することで終結しました。しかし、この運動の影響は大きく、イラン社会に大きな変化をもたらしました。
- 近代化への抵抗: タバコ運動は、イラン国民が西洋文化や近代化に対する抵抗意識を持つことを示しました。
- 宗教的権威の強化: 運動を通じて、イスラム聖職者の影響力は増大し、社会における宗教的な支配力は強化されました。
- ナショナリズムの台頭: 外国企業による経済支配への反発から、イラン国民のナショナリズムが芽生え始めました。
タバコ運動は、一見すると些細な出来事に見えますが、実は19世紀のイラン社会を大きく変えた出来事でした。この運動を通じて、イランは近代化と伝統との間の葛藤、そして宗教的権威の役割について深く考えるようになりました。
イベント | 原因 | 結果 |
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タバコ運動 | イギリス東インド会社によるタバコの専売制度導入 | 専売制度の廃止、近代化への抵抗、宗教的権威の強化、ナショナリズムの台頭 |
1848年のタバコ運動は、イランの歴史において重要な転換点となりました。この運動は、イランが西洋文化との共存を模索する中で直面した課題を浮き彫りにし、近代化への道筋を複雑なものにしました。